彼が生まれ変わったら何に生まれ変わってるだろうか?

歳はいくつになっただろうか?

 

何ともわからない動物から乳を飲み生前の年齢に追い付こうと必死に飲み込んでいるだろうか。

 

俺が唯一、固執という感情をもったあの少年を最後に目にしたのは10年前の暑い日だったという事だけは脳裏にしっかりと焼き付いている。

 

あの少年のウソのような青い瞳が俺は忘れられないのだ。

 

 

 

*二息歩行* 廃れた社のおつきさま

 

 

        第一章

 

 

 

仕事が休みの日、宮部は家で過ごす事が退屈だった。

 

嫁はエプロンをつけて掃除をしている。しきりに掃除機のコンセントの付け根部分を触ってた。娘はDSのゲームの画面に夢中で、娘のそばに空けられて散らかったポテトチップスの袋が転がっている。下の娘の方はテレビを見ながら何か話しかけて来たような気がしたが素っ気なく返事をして終わらせた。

そこで妻が俺の読んでいる新聞を取り上げてしかめっ面でこちらを見ていた。

 

「ねぇ、あなた聞いてるの?」

 

「何?」

 

「ママが、掃除機のコンセント壊れたって言ってる」

 

末の娘が付け足すように話に入り込んだ。

ああ、それでさっき俺に何か話しかけてたのかと理解した。娘の言葉に相づちはうったが何を話しかけられているのか全く聞いていなかった。

 

「そう、壊れたのなら新しいの買ったら?」

 

「それなら今度の日曜日一緒に買いに行きましょうよ。あの子達もつれて出掛けがてらに」

 

妻は隣に座って期待のこもった目で見てきた。俺は横目でチラリとみるだけで、取り上げられた新聞を取り戻してさっきの記事の続きを読む。

 

「嫌だよ。掃除機買うだけでしょ?」

 

「なんでよいいじゃない!!」

 

妻は熱のこもった口調で反論しているが、どう言われても行くつもりは無かった。そのうちに妻がため息をついた。

 

「ねぇ、少しは家の事にも関心をもってよ?」

 

またその話かと思う。

 

そう言われると正直返答に困る。まず、関心を持つという事、それが俺には無縁な話だと思っている。

これまで30年以上生きてきたけど、何かに関心を強く抱いた事なんて無かった。

俺に関心があるとしたらボクシングをやめて吸いだした煙草と、この家族という面倒な檻の中に一緒に住んでる女達をどうにか餓死させないための金だ。

そうやって、金を稼いできてるのだから休みの日まで関心をもてと言われても面倒くさくてかなわなかった。

 

「ねぇ、パパが修理してあげなよ?」

 

末の娘がテレビを見ながらそう言ったが「なんで俺が?」と言い結局放っておいた。休みの日なのに全てが面倒でつまらなかった。こういう時は何か理由を見つけて家を出るに限る。そう思い 生ぬるくて窮屈なだけの家を出た。妻も娘もつまらない、娘が学校であった話を自分に伝える言葉さえまるで興味が無い。我ながら最低な父親だと思っている。娘は二人いるが、長女と次女が何歳違いの姉妹なのかさえハッキリと把握してないのだ。

 

思えば俺は物心ついた頃から、どこか感情が冷めていて、皆が流行りについて熱を持ってるときも横目で流すだけだった。それが今でも続いてる。

 

俺は、まるで道端に座って歩くのをやめた傍観者のようだなと思った。

 

特にやる事もしたい事も見つからず取り合えず自分が経営しているボクシングジムに向かった。今日は非番だったがジムは今日も営業中だ。

夏の日差しが暑くて外にいるのが嫌だからジムに逃げ込もうと考えた。

 ジムには選手達が活発に練習に励んでいる。その選手達の間を通り自分専用の部屋の会長室に入る。

空調で冷風を流すと、体からつぶになって出ていた汗がひいてきた。

整頓された自分の机に向かって席につく。

そこでやっと一息つくと体から力を抜いた。

静かで、何にも干渉されないこの空間が好きだった。

この空間だけは誰にも邪魔されない自分だけの部屋なのだ。

 

そうして静かな時を過ごしているとさっそく勢いよく部屋の扉が開かれ邪魔をされた。

騒々しい開け方からボクシングの選手が入ってきたとすぐに分かる。

俺は、眉間に感情を寄せて「何?」と不機嫌そうに言葉を出した。

選手の用件は心底どうでもいい内容だった。

「会長…!俺、昨日彼女と喧嘩しちゃったンすけど、メールしても返事来ないし、こういう時ってどうすればいいんすかね??」

 

「死ねば?」

 

この神聖な俺の部屋を慌ただしくしたバカをさっさと追い出して、引き出しから煙草を取り出して火をつけた。

 

「いつから煙草なんて吸ってるの?」

 

ギクリとして扉の方に目をやると、そこには同期でボクシングをやりだした 小栗が居た。

 

「部屋に入る時はノックしろよ?殺すよ?煙草は…ボクシング辞めてからかな」

 

「随分前からじゃない、全然気付かなかった」

 

「別に、いつも吸ってる訳じゃないよ。たまに。暇で何もやる事なくて退屈してる時にだけ吸うんだよ」

 

「意外だな、嗜好品みたいな物にお金をつぎ込む奴だとは思ってなかった」

 

「娘も妻も、好き勝手に洋服やゲームを買ってる。俺だけ毎日退屈に過ごしてて嗜好品の1つもないなんて不公平でしょ?」

 

小栗は少し考えながら一般論を持ち出して聞いてきた。

 

「まぁ…でも、父親って普通 娘の笑顔とか妻の美しい姿に癒されるものなんじゃないの?」

 

「俺は癒されない。嫁は美しくないし、娘の笑顔を見ても一ミリも心に何も感じない」

 

「父親として失格だね」

 

「というか人間として失格かもね」

 

そういうやりとりがいつものように終わって小栗にコーヒーを入れさせて持ってきてもらう。小栗は宮部が雇ってるボクシングのトレーナーなのでそういう時だけ上下関係が表れる。

 

小栗がコーヒーを机に置こうとした時、ふと動きがとまった

 

「何これ…お守り…?」

 

引き出しの中にしまっておいたそれに小栗が手を伸ばして取った。煙草を取り出した時に引き出しを開けっ放しにしてしまったのだ。

 

「人の物を、勝手に触るなよ」

 

奪うようにして、それを取り返すとポケットに押し込んだ。

俺にとって他人に触られて一番嫌な物だった。

面倒になって小栗を部屋からさっさと追い出す

 

日がくれたら早めにここも出よう、蝉の声がうるさいこの季節は重く、苦い気持ちになるから嫌いなのだ。

 

 

 

18時を過ぎる頃やっとひぐらしが鳴き出して少し外が静かになってきた。

何もやる事も無いので選手に指導をして時間を潰していたがそろそろ外に出てもいいかもしれない。そう思って俺は、早々に支度をして、残っている選手達に「お疲れ」と言葉をかけてジムを後にした。

だいたいの選手がこちらをみて挨拶を返していた。

 

外は、夕日が目に見える景色を赤く染めていて

暑苦しい熱気も冷めている、宮部は家に直帰せずぶらりと遠回りをして帰る事にした。

ジムを右に出て進む、途中、自動販売機で缶コーヒーを買い、右手にそれを持ちながら歩いた。この周辺は大通りは少なく狭い歩道が続いていた。回りは時おり民家があるようなもので後は雑木林が多い。

このままずっと進むと山の麓にまでいく道があり、その道を選んで進んだ。

なんとなく、人通りの少ない場所を選んで進んだ。

雑木林の木々の数が増えて山の麓に近付くと空気が少しひんやりして来た。

ふと、山の上へ延びる石段が有り、そこへ座ることにした。

腰かけると石で出来た階段はひやりと冷たく尻のあたりの熱が奪われていく。宮部は握りっぱなしだったコーヒーを左手に持ち変えてズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとした。その時何かが引っ掛かって落ちた音がした。

落ちたのは、昼間小栗から取り返したお守りだった。

 二枚貝が赤い布で包まれていて、中に何か粒が入っているのか振るとからからと乾いた音が聞こえるお守りだった。赤い布の表面には金色の文字が印刷されていて、御守りと書いてあった。文字は、古くなってかすれている。丸みを帯びた三角形の角の部分が擦れて少し薄くなっていた。

宮部はそのお守りを拾い上げ見つめた。

 

このお守りは10年も前に貰ったものだった

 

「死ぬくらいならお守りなんて要らなかったよ」

 

 周辺の木々が濃い葉の匂いを漂わせている。いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。そこへ目の前に通りすがりの年配の女性が宮部を見つけて声をかけて来た。

 

「こんな山の麓に…道にでも迷われましたか?」

 

どうやらぼーっと座り込んでいたので心配されたようだった。

 

「あぁ、ちょっと用事があって立ち寄った帰りですよ」

 

本当は用事なんて無かったが面倒で適当に嘘をつく。早く帰って欲しかった。

 

「『おつきさま』にお参りですか?」

 

年配の女性は階段の上の方を見上げた。

 

「おつきさま…?」

 

「そうなのよ。この上には神社があるんだけど、もう何年も前に廃れてしまったの。でも、夜にここにお参りにくるとね、小さな願い事なら叶う 不思議なおつきさまが神社に住んでいるって話なのよ」

 

この階段の上が神社だという事は宮部も知っていた。何故なら宮部が持っているこのお守りはこの階段の上の神社で買ってきたものだと聞いていたからだ。

でも、『おつきさま』の話は初耳だった。

 

「そうなんですか…ありがとうございます。お参り…してみます」

 

そう宮部は言うと、立ち上がり長い階段の先を見上げた。この階段を登るのはずいぶんと久しぶりだった。

 

辺りが薄暗く、足元もよく見えない。手すりもないので慎重に階段を登る。

ずっとこの場所には来ないようにしてたのに、何故か登る気持ちになった。

ずっと引き出しにしまっていたお守りが

偶然にも手元にあって、それを見つけたからだろうか。俺は長い階段を黙々と登った。

登りきると、苔が生えた古びたお社があった。廃れてしまったという話は本当だったのだなと思う。階段を登って、少しあがった息を整えながらお社に近付いた。境内は整備する人間がいないのか荒れており砂利が敷かれてあったであろう地面も苔に覆われていた。賽銭箱も傷んで苔が生えていたり、所々木が折れていたり虫食い穴があったりと、ボロボロだった。

宮部は賽銭箱の前になんとなく立つとお社の全体を見た。

あまり大きくなく、こじんまりしている。

お社の回りには背の高い木は生えておらず、暗くなった夜空がぽっかり見えている。そこに月が静かに浮かんでいた。

 

「これが、『おつきさま』の正体って事なのかな」

 

小さな願い事なら叶えてくれる…。

 

そんな都合の良い話ある訳ないと思いながらも、右手にお守りを握りしめて手を合わせた。

 

「まだ、生まれ変わってないなら…」

 

目をつぶり。自分の中にある欲の固まりを口に出した。お守りをくれた彼が死んでから、以前にもまして退屈で欲も生まれずつまらない。

だから このなんともいえない胸にある虚無感をさっさとどこかになぎはらいたかった。

 

「生き返って姿を見せてよ」

 

何も起こらないなんて知ってる。

そんな風に自分をバカにして笑うと宮部は階段を下がってお社を後にしようとした。

階段を降りようと足を踏み出した時、静かだった辺りの空気を震わすように鈴の音が聞こえた。

 

 ガランと錆びて鈍い音しか出なくなったお社の鈴の音だった。

風もなく、人もいない。

 

宮部は後ろを振り向いてみる、

そこには高い場所から青く光を照らしている月と、その月光に照らされた場所に少年が座っていた。ちょうどそこは、ボロボロになった賽銭箱の前の階段だった。

 

宮部は息が出来なくなるほど動揺し、動けなくなった。

 

この世には居るはずの無い、よく知った少年だった。

見間違うはずもない。

雪のように白い肌と整った顔立ち。

ゾクリと全身の毛穴が逆立つのがわかる。

 

 

以前、彼を初めて見たときも俺は今と同じ感情になった。

その少年の顔立ちのあまりのよさに、正直嘘臭く、気味が悪いように感じた。

そして同時に、その美しい容姿の少年を見て息をするのを忘れそうになる自分も居たのだ。

 

あの時の感情が、まるでタイムスリップしたかのように沸き上がった。

 

 

ここに居るはずの無い少年に驚いて動くことが出来ない。俺はただ、うつむいて座っている少年の顔から目が離せず立ち尽くしていた。

そうしてしばらくすると

瞳を閉じていた少年の瞼がゆっくりと開かれる。その瞳の色は、彼を照らしている月がそのまま、そこにあるような、ウソのような青い瞳だった。

 

 

 

 

        第二章

 

 

小森しゅんたという少年が、10年前に死んだ。11歳だった彼の死因は事故死だった。自動車に跳ねられ頭を強く打って死んだらしい。

俺は葬式に出た。彼はどこも怪我をしていないような綺麗な見た目のまま、何故か満足そうな顔で横たわっていた。

式場で、誰かに話しかけられた。

お守りを手渡された。

これを彼は最後に持っていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんばんは」

 

彼が声を出し、そう言った。

 

「君は…」

 

ふいに出た言葉はそれだった。

俺は彼を知っている。

10年前に死んだ小森しゅんただ。

生前、彼とは友人だった。年の離れた小さな友人。そして彼は俺にとって特別な人だった。

 

彼は困惑したように首をひねった。

 

「わからない。覚えてないんだ気付いたらここに住んでて…。あなたは…?」

 

"あなた"という言葉に動揺した。彼は俺を覚えていない

 

「はじめまして」

 

そう言い、彼がニコリと笑った。彼の瞳が細くなり頬が持ち上がった。

彼は座ったまま動かずにじっとしている。

そこから立ち上がろうとする気配はなかった。俺は彼の存在を確かめるように賽銭箱の前まで歩き近づく。

ハッキリと姿は見れる。だが、きっとこれは違う。幻覚だ…そう思った。

 

 

「俺は…ただの参拝者だよ…。君が小さな願いを叶えてくれる『おつきさま』?」

 

すると彼はうーんとうなりながら下唇をきゅっと上に持ち上げた。

 

「少し前からそう呼ばれてる」

 

彼は照れたように、本当は自分はそんなんじゃないというような事を話した。

とにかく、彼が『おつきさま』の正体という事のようだった。

 

彼をしばらく見つめていると、不思議そうに彼も見返してきた。

言葉は無かったが、生前と同じなつっこい目線でこちらを見ていた。

 

ふいに、ふふ…と彼は無邪気に笑った。それを見て彼がそこにいるという幻覚が、嘘で本当に生き返ったのだと思えてきてしまう。

 

「不思議だなぁ…俺、誰かに姿を見られるの初めてなの。どうしてあなたには俺の姿が見えるのかな…?」

 

それは、俺の都合のいい幻覚だから…そう思ったが、声に出しては言わなかった。

いや、声を発する事が出来なかったのだ

何故だか胸がざわついて落ち着かない。あまり感じた事の無いこの感情をなんて呼ぶのだろう?怒りでも驚きでもない、でもそれと似ていてよく分からない。ただ、自分の気持ちが落ち着かず、頭に血がのぼったように何故か熱くなる。

 

「君がおつきさまなら、願い事を叶えてよ」

 

鼓動が早くなっていた。

俺は短く言う。彼は少し考えた後に「どんな願いか教えて?」と言った。

 

「バカみたいに死んでいった人をさ、生き返らせてよ」

 

彼は驚いて戸惑い、うろたえた。

 

「俺にはそんな大きな力は無いんだ…だからそれは…」

 

そこで俺は皮肉を含むように笑って彼に背を向けた。

都合のいい事なんて起こるわけない。

こんな馬鹿げた幻覚に自分の心が惑わされている。いつも冷えてた感情がいつのまにかに発熱しているように体を流れていた。

お社に背を向けて帰ろうとする。

 

「待って!」

 

後ろで叫ぶ声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。「もういいよ、役立たずの神様」吐き捨てて階段を降りる。

ひどい言葉を言ったと思った。だけど、そうやって裏切ればこの慌ただしくなった感情がおさまると思った。きっと幻覚も消えてくれる。

彼は死んでいるのだ。

気持ちが落ち着かず俺は早足で階段をかけ下りる。

早くここから立ち去らなければ、ここに来てはいけなかったんだ。そう思いながら真っ暗になった夜の道を俺は進む。

俺は、自分の瞳が熱くなってる事にも気付かなかった。

 

****

 

人と話をしたのは何年ぶりだろう?

 

あの人はどうして、あんなに悲しそうな顔をしてたのだろう…?

 

しゅんたはさっきまでと同じ場所で宮部が居なくなった方を見ていた。

引き留めたいと思ったけれど、気づけば何故か足が動かなかった。座った場所から微動だに動けない。それに外気の温度を肌で感じた。それはしゅんたにとっては10年ぶりの感覚だった。

 

どうして…?

 

今まで自分は寒さも空腹も感じなかったなのに今は感じている。

まるで、生きているようだと思った。だけど俺はここに何年も居た。

誰かを待っていたという漠然とした想いはあった。

なんだっけ? 誰を待ってたんだっけ?

 

しゅんたは着物の袖を口元に持っていってため息をついた。

 

 

*****

 

 

「気分が悪い…」

 

翌日の朝、そう呟きながら朝食の用意がされてるテーブルに着いた。

 

 相変わらず、外も家の中も蝉の鳴き声があちこちから聞こえるようにうるさい。

仕事に向かうまでの、朝起きてからの時間が宮部をイライラさせた。

そして、その腹立たしい感情は何故かいつにも増して強かった。

 

 娘二人は朝食の際も、テレビを見ながらテーブルに肘をついてだらしなくしていた。もう注意する気も無かった。昔は何度も注意をしたが、嫁がいいじゃないと仲裁するので娘が言うことを聞いてきちんとしたためしが無かった。子供は正直なもので、楽な事を覚えるのは早いのだ。だから楽な方を選ばせてくれる母親の意見をいつも尊重する。嫁はあまり出来た人間じゃなかった。「今が良ければいい」という考えが一番なのだ。

 

 そもそも嫁とのなれそめも、自分が浅はかだったばかりの結果だった。

自分がまだ、現役でボクシングの選手として生活していた頃、ファンだと言って挨拶に来たのが嫁だった。

試合がある度に熱心に通ってくれた嫁は何度も食事の誘いをしてきた。

女性関係は面倒で避けてきたが、何度も足蹴なく通ってくれる姿を見て、根負けをして試合の勝利のお祝いに食事をごちそうしてくれるという話に乗ったのだ。

だが、次に目が覚めれば 見知らぬ部屋のベッドで寝かされ隣に嫁がすやすやと寝ていた。

まるで、何も覚えてなかった。

どうやら、食事をした際にお酒を大量に注がれそれを飲んでから記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。

そして、後日、「子供が出来た」と連絡が来た。

最初は信じられなくて戸惑ったが、どうやら酒が回って意識が混濁している時に嫁に好きにされたらしい。

事実、生まれて来た子供のDNAは100%自分の子供であると通達も受けた。

 

子供が自分の子供である以上、自分の意思とは別に親の責任が生まれる。

二人目の子供の時も同じような過程で出来た子だった。自分は愚かだと強く思った。

こうして俺は、家族という檻に住む自動現金輸送機になったのだ。

 

この事実を知っているのは同期の小栗と数人のジムの選手だけだ。

 

この話を聞いても信じず、俺が男だから女を抱きたくて抱いたんだとちゃかす奴も居た。正直、殺意を我慢するのに必死だった。

男というだけで、誰でも女性にがっついているという考えは心底やめて欲しいと思う。

 

 食事を簡単にすませて、家を出る支度をした。夏用のシャツを着て腕時計をはめる。

 

その様子を見ていた嫁が話しかけてきた。

 

「今日は早く帰ってこられるの…?」

 

その瞳はうっとりとしていた。

嫁は以外にも、まだ自分に好意的な気持ちが残っており隙があれば 夜の関係を迫ってくるのだ。それに気付かないフリをして俺はさっさと靴をはく。

 

「試合が近い選手が居るから、長引くかもしれない」

 

そう言って家を出た。

外に出ても蝉の煩い鳴き声で、イライラした。眉間にシワを寄せて鬱陶しく思う。

 ふと、昨日の神社での出来事を思い出す。声も、仕草も俺は彼を知っている。そしてそれは彼も同じくらい俺を知っているという事のはずだった。自分が感情に任せて口をついて出た暴言を思い出す。幻覚だと信じていても虚しさが時おり胸を突いてきた。

そんな気持ちも考えも振り払うように俺は、ジムにあるオアシスを目指して今日も出勤した。

 

 

御守りが無い事に気が付いたのは、昼食の時間だった。引き出しに御守りが入っていない。

ずっとこの引き出しに入れていたのであるのが当たり前になっていたが、昨日ポケットに入れたのだという事を思い出す。

煙草を吸おうと引き出しを開けたのに、煙草の事はすっかり忘れて引き出しの中を漁った。

 昨日、神社でお参りした時の事を思い出した。あの時確か手に持っていてその時落としたのだと気が付いた。

あの、神社にもう一度足を運ばなければならない理由が出来てしまった。

 

あんな幻覚、もう見たくない。

自分が望んで見てしまった幻覚なら、尚更もう見たくはなかった。 

俺はかぶりを振って忘れようとする。

だが、なんど目を固くつむってもどうしても昨日の事が何度も頭に浮かんで来るのだ。

 

あの時、死んだはずの彼がそこに居て、瞼を開きこちらを見た。そして驚いたようでもなくただ 柔らかく笑った。

その表情があまりにも、現実味がありゾクリとした。

彼は10年も前に死んでいるんだ。

生前、彼はある名家の次期当主になるはずの子供だった。俺はその名家の事は嫌いだった。あまり良くない噂があり、伝統と格式の為なら手段を選ばないといった印象があるからだ。だけど、彼は…そういった家に生まれながらも異質な存在だったように思う。

わずか11年しか生きていないのに、大人さえ発想しないような大人びた考えを時々ぽつりと呟いていた。

例えば、彼を名家の長男という事から嫌う人間がたくさんいて、その人間から多くの嫌がらせやいじめを受けていた。その事を彼から聞いた時、なぜ家の人に相談しないのかと尋ねた事があった。

すると彼は 困ったように笑いながらこう言ったのだ。

 

「確かにね、困った事だと思う。だけどねあの人は心の中が苦しくて間違ってると思ってもどこかにぶつけなきゃ、自分が壊れてしまうと思ったんじゃないかな。それを俺の家の力で摘み取ってしまったらあの人はどこに感情を向けていいのか分からなくなるでしょう?」

 

彼は正しい事を言ってない事に気付いている。それでも、自分だけが被害にあっているうちは少しの間我慢して、機会があれば相手と話をし、諭すように努力していた。そんな心が優しすぎる人だった。

 

昔の事を思い出し、妙な頭痛に襲われた。

急いで煙草を取りだし火をつける。

煙を肺の奥まで吸い込むと、不思議と痛みは和らいだ。

 

昨日 神社で彼を見た時、俺は暴言を吐いてその場から立ち去った。

その立ち去り際に、彼は小さな声で、「お願い」と願う言葉を俺に投げ掛けた。

 

「また、来て」

 

 

煙草を灰皿に押し付け火種が残らないように先を潰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…寂しそうな顔してる」

 

寂しい…?別に俺は寂しく無いよ

 

「そうかな?でもずっと何も見ないで歩いてたでしょう…?」

 

………?どういう意味……?

 

「お友だちとか、周りに居る人を見ているけれど、見てないの。近くに行かないでずっと離れたところを歩いてる。」

 

よく、分からないな

 

「俺はね、一人で居ると凄く寂しくなる、だからね、秋仁くんが一人で歩いて居るのを見ると声をかけたくなって…」

 

だから?

 

「えっと…、だから、俺とお友だちになろう!それで、俺みたいなのでも隣に居るよって言いたいんだ…」

 

君は…、誰…?

 

「俺…?俺はね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると小栗が目の前に立って居た。どうやら眠り込んでしまったらしい。

 

「珍しいね、お前が人前で寝入るなんて。なんか今日朝から様子変だけどどうしたの?」

 

「別に…」

 

顔を手で擦りながら俺は、まだ夢の続きを見ているような ふわんとした気分が残っていた。随分昔の夢だった。

 

現役でまだ自分がボクサーとして活動していた頃。

ボクシングが休みの日、路地裏で中学生くらいの集団が何かを取り囲むように集まり騒がしくしていたのを見つけた。

よく見ると、集団の中に囲まれた気弱そうな男子がいて、いわゆる、いじめというものがそこで行われてるようだった。

周りを囲んでいる男子は5、6人居て一方的に暴力を振るっているようだった。

俺は、それを見て助けるでもなくただ見ていた。前に似たような事があって助けた事もあったが、それはほんの気まぐれで今度はその気まぐれが起きなかった。

そのいじめの現場を見ても、胸は空っぽで何も感じなかった。

すると、そこに飛び込むように小さな子供が入っていった。

小学生くらいの男の子で、格闘技を習っているのか、体格が自分の何倍も大きな中学生相手に、格闘していた。しばらくして中学生が逃げ出すとその小学生はいじめられていた男子に手を差しのべた。

だが、意外な事にいじめられていた男子はその手を払いのけ「小森家のお前に助けられたくなんかなかった」と腹の底から怒鳴って逃げた。俺は助けに入った少年と目が合った。

俺が助けに入らなかった事を咎めるだろうかと思ったが彼はそうしなかった。

 

俺に近寄って来た彼は、顔を緩め微笑むと

 

「助けを呼ぼうとしてたんでしょう?ありがとう」

 

と言った。俺の右手には携帯電話が握られていた。

 

これが俺と小森しゅんたとの出会いだった。

 

彼は、俺のよく通る道を自分もよく通る事があって、以前から俺を見かけていたと話した。そして、前にもいじめられて居た子供を助けた時も偶然見ていて知っていたのだと笑った。

 

「宮部…秋仁くんっていうんだ。凄くいい名前だね…。秋のように静かに、それでいて優しい名前」

 

「優しい名前…?」

 

「うん!仁っていう字はね、おもいやり、いつくしみ、情け深いという意味があるでしょう…?だからね、あなたにピッタリだと思う!物静かな感じがあって、冬に向かう厳しさもありながら、他人を思いやる気持ちがある…そんな名前」

 

自分の名前の意味なんて考えた事も無かった。そして、俺はそこまで名前に値するような器じゃないと知っていた。だが、彼はそれを信じて疑わないように俺を見つめていた。

彼は、あきひと、あきひと、とぽつりぽつり気に入ったものを見つけたように呟いて「あなたのこと秋仁くんって呼んでいい?」と訪ねてきた。

 

他人に下の名前で呼ばれるのは初めてだった。自分も下の名前で呼ばれる事は嫌いだったし、知り合った人にもわざと名字しか教えない程、小さな頃から下の名前を他人が口にするのは嫌だった。

だが、彼が、綺麗な顔立ちが崩れても気にしていないというように屈託なく笑うので、いつの間にか許してしまった。

 

それから、彼は俺に会う度に「秋仁くん」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

ふと、気付くと

日が沈み、ヒグラシの鳴き声がジムの中まで響いて居た。仕事を終えて、昔の出来事を思い出していたらもうこんな時間になっていたらしい。

練習を終えて解散していく選手達を見送り、ジムの扉に鍵をかける。

俺は、ある場所に向かおうと決めていた。

 

 

お社の前に俺は来た。

まだ、夕日が沈みきっておらず日の光を頼りに辺りを見回した。

昨日、社を見上げた付近の地面に目を凝らす。赤い布の二枚貝で出来たあのお守りを探していた。お守りは何処にも見当たらない。土と苔に覆われた地面を何度も見る。

赤い色をしているのだから、見つけるのは簡単だと思っていた。

日が沈み、とうとう辺りは暗闇に覆われてしまった。ここには外灯もなく月の光でもないと、真っ暗になってしまうようだ。

しばらく、スマートフォンの光でお守りを探していたが見つからず仕方なく、社の階段に腰を下ろした。

当たり前のように、昨日幻覚を見たその場所には小森しゅんたの姿はない。

お社の上段に、彼は昨日座っていた。

その位置より下の段に俺は腰かけていた。空を見上げる。青白い小さな月がぽつりと浮かんでいる。

ため息が出た、たぶん冬ならふわりと白い息がまうくらい大きなものだ。

 

「こんばんは」

 

突如後ろから声をかけられて驚いた。振り向くと、昨日と同じその場所に小森しゅんたは座っていた。

俺は驚いて声が出ない、二日も続けて幻覚をみるなんて事あるのだろうか?

ふいに、彼は右手をこちらに差し出してきた。とっさに俺は立ち上がり距離をとる。

 

「ぁ…」

 

小さなかき消えるような声を彼は出した。

昨日の暴言を彼は覚えているだろう、幻覚が相手でもそう思った。

 

「あ、待って」

 

ふいに彼は前のめりになって段を転がり落ちた。不自然な落ち方で、段を転がり朽ちた賽銭箱にぶつかった。鈍い音がした

 

「何やってんの」

 

焦って彼を抱き上げるようにした。

とっさだったが、幻覚だと思ってた彼は掴めた。着物の生地の感触も布の下にある皮膚の弾力もしっかりある。

彼は賽銭箱の角に当たったのか頬に擦り傷が出来て血が滲んでいた。

 

「ごめんなさい、足が動かなくて…でも渡したいものがあったから」

 

足が動かないと言う言葉に困惑しつつ彼を見ていると彼は俺の探していた物を差し出してきた。

 

「落とし物だよ…"参拝者"さん」

 

にっこり微笑んで彼は言った。

二枚貝のお守りを彼は差し出している。

10年も前、今と同じように彼からお守りを貰った。「幸せになるお守り」そんな大雑把な願いを込めて彼は俺にくれた。

 

お守りを受けとる。所々布が擦れて薄くなってるボロボロのお守り。

熱いものが頬をつたった。俺はいつの間にかに泣いていた。

 

彼はここにいる…、幻覚ではない、ここにいるんだ。漠然とそれを感じて、感情が涌き出るのが止まらなかった。

 

死んだ後、彼が俺を忘れていても、彼は彼のままだ。自分の痛みはそっちのけで他人の痛みを心配する。馬鹿でしょうがない人だ。

 

「昨日は酷い事を言ってごめん」

 

俺は彼を抱き締めた。

彼はやっぱり小さくて子供だった。だけど心はどんな大人よりも純粋で清らかだった。そんな所が理解出来なくて、でも理解したかった。

 

突然の事に彼は戸惑う。

 

「あ、あの、どうしたの?大丈夫?大丈夫?」

 

 

俺は彼を離し、頬の傷を見る。血が乾きはじめていた。

 

「急にごめん。俺もこんな気持ち初めてなんだ。どうしていいかわからなくて…」

 

この感情はなんだろう…?

 

だけど、今はっきりと思うのは

彼は幻覚などではなく、今目の前に生きているのだと強く思った。

 

 

 

 

 

 

        第3章

 

 

 

 

 

「おつきさま…君は…名前は無いの?」

 

「それが、覚えてないんだ…自分の名前なのに全然覚えてないの」

 

気付いた時にはお社の中に自分は居て、人の無くし物とか、孫からの電話が欲しいとかそう言った願いを魔法のような微量な力で叶えていたらしい。

 

「気づいたら、おつきさまって呼ばれてた…でもそれが本当の俺の名前なのかな?」

 

君の名前は「小森しゅんた」だよ。そう言いたかった。だけど彼は自分が死んだ事にも気付いてないかもしれない、それを言うのは酷だと思った。

 

「俺の名前は……覚えてない?」

 

「え…?」

 

困った顔をして彼は考える。

「秋仁くん」と呼んでくれていた記憶も彼には無いのだと再度思い知らされた。

 

手持ちのハンカチを彼に差し出して傷に当てさせた。俺は彼の隣に座っていた。

目の前には境内と、下の道へ降りる階段が見えてあとは夜空が浮かんでいた。

 

聞きたいことがたくさんあった。それを1つずつ聞いていく事にした。

 

「足が、悪いんだって…?いつから?」

 

「うん…でも、すこし前まで歩けたんだよ。でもその時は俺の姿は誰にも見えなくて、あなたに呼ばれて、会った時から動かなくなっちゃった…」

 

「俺……?それまではそんな事なかったの?」

 

「うん。こんな事初めて…なんだかあれから体が以前と違うんだ」

 

ちょこんと座ったまま彼は言葉を続ける。

 

「前は、寒かったり、暑かったりしなかった!コケて怪我をしたりもしなかったし、痛くなかった!」

 

「今は痛むの…?」

 

「あ、ううん!大丈夫」

 

嘘だ。彼はいつも、人に心配をさせたくなくて気丈に振る舞ってしまう所があるのを知ってる、だからそう思った。

手当てしてあげたかったが、手持ちに治療道具がない。店まで買いに行っても良かったがその間に彼が、また消えてしまうのではと怖くて行けなかった。

 

「いい匂いがする…!」

 

突然彼は顔を上げた。

俺には届かない匂いを彼は嗅ぎ分けたらしい。彼は首を上に向けて一生懸命匂いを吸い込んでいた。

 

「お腹が…空いてるの…?」

 

「え?」

 

彼はお腹に手を当てた。

不思議そうに考えていて沈黙が訪れた時に彼の腹の虫の声が小さく聞こえた。

 

彼は腹がなった事が恥ずかしかったのか顔を真っ赤にしてうつむいた。

 

「俺の家にくる…?」

 

彼をこのままこのお社に残していくのは嫌だった。何より離れがたい。

家に帰れば食べ物や水を分けてあげられるし、側に居たかった。

 

「あなたの家に…?いいの?」

 

「うん、君が良ければね」

 

彼は少し考えた後、じゃあお願いしますと言った。ここに一人で残るのは寂しいのかもしれない。俺は彼をおんぶして帰る事にした。おんぶの体制をとり声をかけると彼は戸惑っていたが、自分は歩けないのだと観念したようにおぶられてきた。

彼は軽かった。着物の裾を開いて足をもたなければならない。露になった彼の足は小さかった。

なるべく、人通りの少ない場所を選んで帰る事にする。彼の小さな重みに満足したような心地になって俺は足取りが軽かった。

 

「どうして、こんなに良くしてくれるの?」

 

彼は訪ねて来た。彼は俺がただの参拝者だと思っているのだろう。

 

「あなたは優しい人だね」

 

胸が苦しくほろ甘い気持ちになったが、同時に、秋仁と呼ばれない事実が寂しく感じる。

 

「そうだ!あなたの名前を教えて?」

 

彼は無邪気に聞いてきた。俺は戸惑う。

 

「俺の名前は…」

 

 秋仁くん… そう呼ぶ彼の声が聞こえた気がした。

 

「宮部…宮部だよ」

 

下の名前は言わなかった。

 

「宮部…さん…」

 

彼はつぶやいて確認した。

そして安心したのか彼は頭を俺の背中に預けて眠りについたらしい。

俺は空を見上げた。空は真っ暗闇に包まれていて、回りの木々が黒く切り絵のように浮き立っていた。

 

 

*****

 

 

眠っていたしゅんたの耳にある音が聞こえた。それが鉄の扉が開く音なのだと分かるのに少し時間がかかる。

しゅんたは、宮部におぶられたまま自宅まで連れてきてもらったようだった。

玄関に入ると女性用の靴が脱いで置かれていて宮部が独り暮らしではない事をしゅんたは知った。誰の靴だろうか?大人用の落ち着いた色合いのヒールの高い靴と、子供用の桃色のスニーカーやサンダルが散乱していた。

男性ものの靴は見当たらない。そこに宮部が靴を脱いで廊下を進んだ。

 

「おかえり」

 

出迎えにきた女性がしゅんたの事を見つけて驚いた表情をした。

しゅんたはまだ、眠くて顔をあげられない。だから女性の顔は見れなかった。

 

「誰?その子」

 

「俺の知り合いの子…ちょっとそこどいて」

 

宮部は構わずその女性に道をあけさせて自室に入る。

女性の視線がしゅんたの背中に突き刺さるのを感じた。

その事で、宮部の恋人かお嫁さんなのだとしゅんたは理解する。

自室に入ると宮部はベッドにゆっくり腰を降ろしてから、乱暴にならないように手を背中にまわしてゆっくりとしゅんたをベッドに横にさせた。

そこでやっと、ぼんやりと開いたしゅんたの目と合って起きてる事に宮部は気付いたらしい。

 

「起きてたの?」

 

「うん…ちょこっと前から…」

 

しゅんたはまだ、眠そうでうとうとしながら、久しぶりの布団の感覚に幸福を感じていた。

 

「ご飯どうする…?寝る…?」

 

しゅんたに問いかけると「うん」と小さな声で返事をするが、また眠気の波にさらわれて眠りについてしまった。

眠りにつく間際に、優しく頭を撫でる暖かな手の温もりを感じた。

その手からは あふれでるような優しさをしゅんたは感じた。

 

この人と居るとなんて心地がいいのだろう

 

しゅんたは思った。

 

ずっとずっと一緒にいられたらいいのに。

 

そうして、何年も感じなかった安らぎを体に染み込ませてしゅんたは深い眠りについた。

 

 

*****

 

 

「あの子、いったいなんなの?」

 

自室を出ると嫁が腕を組んで立っていた。

 

「だから、知り合いの子だよ」

 

起きたら何かを食べさせてあげなければと思い台所に向かおうと思ったが、嫁が前に立ちはだかり足止めをくらう。

 

「うそ!あなたが自分の部屋に誰かを入れるなんて!私だって入れさせてくれないじゃない」

 

どうやら嫁は嫉妬を感じているようだった。相手が子供だと言うのに、大人げないと思う。

 

「なに?俺の部屋なんだから、誰を部屋に入れようと勝手でしょ?」

 

「勝手じゃない!私はあなたの妻なのよ??説明も無しにうちに知らない子供連れてきて、部屋に入れるなんて…!」

 

「何をムキになってるの?あの子は行く場所も無いし、お腹もすかせてた。外に放っておけっていうの?」

 

そういうと嫁は黙った。

それでも気に入らなさそうに俺の自室の扉を睨み付けていた。

本来ならもっと説明をするべき所だろうが、彼の存在も理由もあやふやな今明確な説明は出来なかった。だがそれ以前に嫁が気に入らないのは俺の自室に他人が入っている事だろう。

俺は、普段から自分の部屋に誰かを入れることは誰であろうと拒んだ。部屋にも鍵をかけてるし、娘であっても部屋に招きいれる事はしなかった。この家の自分の唯一の気の休まる場所だからだ。

 

そこに自分から部屋に入れた事実が気に入らないのだろう。

 

俺は台所を目指して、棚の中を探る。

いくつか調理出来そうなものや、食べられそうなものを見つけて俺は彼が起きた時の為に、慣れないが料理をする事にした。

結局上手く料理は出来ず、何度も失敗しては練習を繰り返し、やっとそこそこの出来のものが出来上がったのは居間で朝を迎えたその後の事だった。

慣れないソファでの睡眠に体が固くなった気がしたが料理は上手くいった。

 

 

「どう?おいしい?」

 

「初めてみる…!これはなんて料理…?」

 

「オムライス…のつもりなんだけどね…」

 

朝食として出した品はオムライスだった。

上にのせている卵が所々破けて見た目は無残なものだったが、味はどうにか整えた。

ケチャップで、よくイラスト等で見る波線を描くとそれらしくなった。

彼はその無残なオムライスを一口頬張ると目を見開いて「おいしい!」と声をあげてくれた。

朝食を布団の上ですまして、水を飲み終えると腹が満たされたのか彼は満足そうな表情になった。

 

「ここは、宮部さんのお部屋?」

 

彼は部屋の様子をうかがった。

歩けないので、布団の中から見渡している。

「凄く綺麗なお部屋だね」

 

俺は自分でも神経質だと感じるくらい綺麗好きだった。私物も机の上にある物ものも、定位置が決まっていてそこからずれていると気に入らなくなってしまうのだ。

この神経質な、部分は幼い頃からで、与えられた玩具等をあまりに綺麗に片付けるものだから、よく客人に驚かれたと両親から聞かされていた。

 

整頓をしすぎて少し殺風景な部屋は彼が楽しめるようなものは1つもない。

今日も仕事に出勤しなければならない。

その仕事に行っている間、彼を一人にさせてしまう事が気がかりだった。

家には嫁が居る、どうするか迷ったが俺は彼を自室に残して仕事に行く事にした。

着替えを始めると、彼が小さく声を出した。

 

「ぁ、あの。ごごごめんなさい」

 

最初はなんの事かさっぱり分からなかったが、彼が俺の着替え姿を見て慌てているのだと気付いた。

体をよじって必死に顔をそらしている。同じ男同士なのに照れているのがおかしくて声をあげて笑ってしまった。

可笑しいと思って笑うのは久しぶりの事だった。

ごめんごめん、そういって自分も彼の視線から外れる位置に移動して着替えた。

彼は足が不自由だ。こちらが移動してあげる事がいいと思った。

 

「今日俺、仕事なんだけど…部屋で待ってられる?」

 

「うん!大丈夫だよ。俺待つの得意なんだ!ところで、俺はいつまでこのオウチに居てもいいの…?」

 

ドキリとした。彼が帰りたがったら引き留める理由は無い。

 

「好きなだけ居ていいよ。それとも、あの神社に帰りたい…?」

 

えと…と彼は何か少し考えてから困ったような顔をした。帰りたいが言い出せないのだろうか。だとしたら…

 

「お、お邪魔じゃないなら…もう少し…ここに居たい」

 

以外な言葉が帰ってきた。困った顔をしていたのは言い出しにくかったのだろう。

そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

 

「じゃあ、ここでゆっくりしてるといいよ。何か読みたい物とかある?本とかしかないんだけど…」

 

そう言ったが少し考えてから、娘の部屋にある童話や挿し絵の入ってる小説、ゲーム機、子供の頃に遊んでいた玩具等を借りて持ってきた。

 

「これ、良かったら好きに使って。娘のなんだけど今は学校で居ないから少し借りるといいよ」

 

玩具がめずらしいのか、気になるものがあったのか返事は少し時間がたってから帰ってきた。

 

「ありがとう…宮部さん」

 

そろそろ出勤の時間だ。

俺は彼にいくつか約束を守らせる事にした。

部屋にいる間は鍵をかけておくこと。

用事がなければ部屋からは無理に出ない事。

部屋に誰も入れないように話しかけられても俺に約束させられてるから入れさせてあげられないという事を説明することを約束させた。

 

 

「じゃあ、行ってくるよ。帰ってきたらまた話そう」

 

「うん、いってらっしゃい宮部さん」

 

彼が笑顔で手を降った。ただそれだけなのに俺の気持ちは妙に明るくなる。

部屋を出て外側から鍵をかけると俺は家を後にした。

 

帰ってくる途中彼が好きそうな本や玩具を買って帰ろう。仕事終わりが今から楽しみになってジムに向かう足を早めた。

 

 

 

*****

 

 

宮部さんは優しい人だ。

そして懐かしい感じがする。

ずっとずっと前からあの人を知っているような、そして深い親しみがあるような気がしてくる。

だけど、それ以上しゅんたは思い出せないでいた。

ベッドの上で立つ練習をしてみる。足先に力を込める。感覚はない。両手で勢いをつけて立ち上がろうとする、だが足はまるで自分のものではないようにいう事を聞かずそのまま前に倒れてしまった。

ベッドの上に宮部が残していった娘の玩具があり、それに顔をぶつけて少しおでこが痛かった。

 

「娘…さん」

 

娘というのだから、宮部は結婚していて子供が居るという事なんだろう。

玩具はところどころ汚れていて使われて何年も経っている感じがした。

全て女の子が好んで選びそうな玩具だった。しゅんたは胸の辺りの着物の襟を掴んだ。胸が痛い。ぽたぽたと涙が布団の上に落ちた。なぜ自分は泣いているのだろう?

なぜこんなにも寂しい気持ちになるのだろろう。

しゅんたは、渡された玩具で遊ぶ気にはなれなかった。それが家族という幸せな形であるように思えたから、宮部の隣に居るのは家族なのだと改めて主張された気がした。

 

どうして会って二度目の人なのにこんなにも、気になってしまうのだろう。

 

しゅんたは着物の裾で涙をぬぐった。

 

するとその時に扉のノックの音が聞こえた。しゅんたはギクリとする。

 

「そこに居るのよね?お願い開けて…?」

 

昨日の女性の声だ。おそらく宮部の奥さんなのだろう。しゅんたは宮部と約束したとおり、開けられないという事を伝えなければいけなかった。

 

「どうも、お邪魔してます。でも、あの、ごめんなさい。秋仁くんと約束してて扉の鍵は開けられないの」

 

しばらく沈黙が続く。

 

「秋仁…くん…?」

 

自分でもするりと言葉に出てきて驚いた。

秋仁とはいったい誰の事だろう?

自分が無意識に言った名前に心当たりは無かった。

 

「どうしてあなたが、主人を名前で呼ぶの?」

 

そこで、やっと宮部の名前が秋仁なのだと知った。昨日、名前を聞いた時に下の名前も一緒に聞いていたのだろうか…?

でも、会って間もない大人のひとの名前をそんな風に気安く呼ぶのは今までの自分ではあり得ない事だった。

とにかく、宮部の奥さんだと思う女性の声音が気になってしゅんたは扉に向かって声をかけた。

 

「あの、ごめんなさい。」

 

返事は無かった。怒っているように感じて謝ったがもう扉の前から居なくなってるのかもしれないとしゅんたは思った。

前屈みになっていた姿勢を少し崩してしゅんたはベッドの背に体重を預けた。

緊張していたらしい、息を深くはいた。

 

鍵を開けた方がよかっただろうか、悪いことをしたなと、罪悪感が胸に広がる。それでも宮部とした約束を守りたかった。

ふと、昨日眠りにつく前に頭を優しく撫でられた時の事を思い出した。

すると、不思議な事に不安だった事や罪悪感でいっぱいだった気持ちが和らいだ。

 

宮部さんは、不思議な人だなぁ…

 

しゅんたは、頭にのせられた手の温もりを思いだし安心してまた眠たくなった。

あの温もりをずっとずっと感じていたい。そう思った。そうしているうちにいつの間にかに眠たくなってくる。

 

しゅんたは抗えず目を閉じる。

 

そうして、夢を見た。

その夢はあの廃れた神社にしゅんたが住むようになった頃の昔の夢だった。

しゅんたが社の屋根を仰ぎ見ると、そこには大きな大きな金色の鳥が社の上に止まっていた。社と同じくらいの大きさだった。

その鳥は 鳳の神と呼ばれるこの社に住む鳥神なのだとしゅんたはわかった。

鳳の神に話しかける。

鳳の神は自分がそろそろ命の終わりを迎えるのだとしゅんたに告げた。本来なら次の主となる鳥神の子が生まれるはずだったが人々から忘れられているこの社ではもう子供は出来ないと言われた。

 

しゅんたは申し出た。

 

俺が皆にこの神社の事を思い出してもらうように頑張るよ!

 

すると鳳の神はこう言った。

 

嬉しい事だ。だがしかし、君には出来ないのだ、君は死んで魂だけの存在だから人の目に触れる事は出来ないのだよ。

 

しゅんたは悲しかった。この神社には大切な思い出もある。ある大切な人にお守りを買ってあげた大切な場所なのだ。それに鳳の神が人知れず命を終わらせてしまうのが悲しかった。

そうして、涙を流していると鳳の神は嬉しそうに目を細めた。

 

私の事で、泣いてくれるのか。

そんなに想ってくれているのなら、私を助けると想ってこの願いを聞いてくれないか?君がもしこの神社を大切に思ってくれるなら、君が変わりに主になって欲しい。

小さな願いだけでいい、時々参拝にくる人達の小さな悩みを聞いてやるのだ。

力は、私に残った力を君にあげよう。その力で人々の願いを聞いてくれないか?

 

鳳の神は首をかしげてしゅんたの返事を待った。しゅんたは驚いた。自分に出来るだろうか、死んで能力など何もない自分にそんな事が出来るのだろうか…。だけど、きっとこの話を断ったらこの鳳の神は静かに消えていくのだろう…

 

しゅんたは決意を固めた。

 

俺が、出来ることならなんでもやる。

ここのお社を一緒に守らせてください。

 

鳳の神は大きな翼を空を覆うように広げると自分の力をしゅんたに渡した。

そして、鳳の神は言う。

 

私の残っている力は少ない。だからもし、大きな願い事を叶えてしまったらその力は消えてしまうよ。だから、少しずつ少しずつ使いなさい。

 

しゅんたは頷いた。鳳の神は 良い子だねと言ってふわりと消えてしまった。だけど、まだ命が終わった訳ではないとしゅんたは思った。

 

それからしゅんたはあの社に住むようになったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ふいに長い夢を見ていたしゅんたに、何かガラスの割れるような音が扉の奥から聞こえてはっとなった。

音は少し離れた場所から聞こえたように思う。

先程の女性がお皿か何かを割ってしまったのだろうか。しゅんたは心配になりベッドからズルリと落ちるように降りると両手の力だけで部屋の扉の前まで移動する。

鍵を開けて、外に這うように出た。

怪我やもしもの事があるかもしれないと気になったのだ。

廊下に出て左手の方に曇りガラスの張られているドアがありそこから人の気配がした。

しゅんたは腕を伸ばし、ドアノブに手をかける。ドアを開くと台所の前で座り込んでいるあの女性が居た。

泣いているようだった。

 

「あの、大丈夫ですか?お怪我は?」

 

どうにか近寄ってしゅんたは体制を整えた。床には割れた皿の破片が散らばっていた。女性がこちらを見る。怪我は無さそうだとほっとした。

 

「あなた…」

 

女性は驚いたような顔でしゅんたを見た。

その目は怒りでもなんでもない、恐怖に満ちた目だった。

 

「昨日はよく顔が見えなかったけど…あなたまさか…いや、そんなはずないわでもあの人が…」

 

しゅんたはなんの事かわからない。

それより、女性の近くに散らばった先の尖ったガラスの破片が、気になった。それに間違えてさわってしまうと危ない。しゅんたはその破片だけでも取り除こうと手を伸ばした。

 

「近寄らないで!!」

 

激しい勢いでしゅんたの伸ばした手は弾き飛ばされた。物凄い剣幕の彼女はおぞましいものでも見るようにこちらを見てきた。

 

「あなた死んだはずの小森家の子供?!なぜここにいるの?!あの人に何をしに来たの?!」

 

女性は立ち上がりしゅんたを見下ろす。

 

「まさか化けて出て、あの人にとり憑こうという気?!」

 

「ち、違います!俺はただ、お願いを叶えたくて…」

 

何を言ってるのかわからないというように、ますます女性の目はこわばっていく。

 

「出ていって!!」

 

物が震えるほど声を張り上げて怒鳴った。

 

「今すぐ出ていって!」

 

「待ってください!ご迷惑なら帰ります。だけど、秋仁くんが帰ってくるまでここに居させてください!約束したんです」

 

そうだ、約束したのだ。帰ってきたらまた…。

 

「"お願い"だから出ていって!!あなたがいると、あの人も私も 迷惑 なのよ」

 

 

 

 

「お願い…ですか………?」

 

 

胸が潰れそうだった。

 

 

あの人にとっても迷惑なのなら… 俺はこの願いを叶えなくちゃいけない。

 

 

「ごめいわくを、おかけしました」

 

 

しゅんたは、すぅっと力を使って消えて見せる。これで大丈夫。ごめんね

心の中で呟いて瞳を閉じる。

ポカンと虚しさが胸に広がっていく。

次に目を開けると、

しゅんたはあの社に帰ってきていた。前と同じように。同じ場所で座っていた。ただ、足は歩けるようになっていた。足先に力を込めてみる。感覚がある。

嬉しいはずなのにしゅんたは涙を流していた。今なら誰にも聞かれないだろうか?そうだ、俺は死んでいるのだ。魂なのだ。それなら泣いてもいいだろうか?大きな声をあげて泣いても…

 

しゅんたは泣いた。生まれたての赤子のように。こんな大きな声で泣いたのは初めてだった心が潰れて前屈みにうずくまる。

痛い…痛い…胸が痛い。

 

もっと一緒に居たかった。お話したかった。笑ってほしかった。

 

あの人の事がずっとずっと昔から大好きだから隣にずっといたかった。

漠然とそう思いながらしゅんたは泣き続けた。

 

廃れた社にはしゅんた以外は誰もいない。

 

しゅんたは独り、泣くことしか出来なかった。

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

        第4章

 

 

 

家に帰ると嫁が割れた皿を袋に詰めて捨てていた。いつもの雰囲気とは違う、異様な雰囲気を感じて話しかけた。

 

「どうかしたの?」

 

「あなた…お帰り」

 

袋をごみ箱の中に入れると妻は俺の首に手を回して抱きついてきた。

 

「ねぇ…あなたが昨日つれて来た子…どういうつもりかはもう聞かないわ…でもね、あの子と一緒に居るのは良くないわ」

 

嫁はしっかりと抱き締める手に力を込めて離さない。

 

「…………彼と話をしたの?」

 

「えぇ…。彼、最後に笑ったの。それが呪いみたいで恐ろしくてたまらなかったわ…」

 

なんの話をしているのか分からなかった。

 

「あんな事を言ったのに、笑ったのよ?あれは子供の姿をした化け物よ」

 

嫁のいいぶんに腹が立った。だが、なにかあった事は間違いない。俺は冷静さを保つように努力しながらその詳細を訪ねる。

 

「出ていけって言ったのよ。お願いだから出ていってって。あの子は願いを叶えるために居たんですって、だからお願いしたのよ」

 

「出ていけって…彼に言ったの?なんで」

 

俺は慌て、焦った。だが彼は足が悪い。一人でどこかに行けるはずはない。まだ近くに居るかもしれないとわずかな希望を夢見た。

 

「だってあの子、昔あなたが話していた子供にそっくりだったのよ?それにあの年齢で中身が大人すぎる、気持ち悪いくらいよ。それにあなたは他人の空似かと思って連れて来たのかもしれないけど、あの子は人間じゃないわ…」

 

嫁は俺の胸に埋めていた顔を離し頬に手を当てた。

 

「私が出ていけって言ったら目の前で消えたの。幽霊みたいに。きっと悪霊だったのよ…私あなたが心配で…」

 

唇を近付けて来た妻を俺は突き飛ばした。

俺は怒りを抑えられず、妻の言葉も聞こえなかった。両手に持っていた絵本や、玩具を投げ出して家を飛び出た。

途中、嫁が叫んだが止まる気はなかった。

俺の考えが甘かった。

自分で自分をけなした。

バカだ、バカだ、死ねこのクソ野郎。

 

彼はどんなに傷ついただろう。

小森家の次期当主として生まれた彼は、心ない人間に幾度となく酷い言葉をかけられ

てきた。それを嫁がまたやってしまった。

彼はしっかりしているが、まだ子供なのだ。大人のように振る舞わなければならない家に生まれてしまったのだ。

それでも彼の優しすぎる心は幾度踏みにじられても枯れる事は無かった。

そんな所が俺は……好きだったのだ。

 

「しゅんた君!」

 

俺はあの神社に来ていた。廃れていてボロボロになっている社の回りをウロウロ探し回る。彼は何処にも居ない。

 

どうして今まで気が付かなかったのだろう。俺は彼が愛しいのだ。彼に生き返ってほしい。

俺の妻が彼をまたもとの姿に戻してしまったのだろうか?

それとも、本当に会えないどこかに今度こそ行ってしまったのだろうか?

境内のどこを探しても彼は見つからなかった。どこにも居ない。俺は社の前に膝をついた。まるで教会で祈りを捧げる人のような姿になった。

また願えば彼は戻ってくるだろうか?

 

「お願いだから戻ってきてよ」

 

声に出して願いを言ってみてもその言葉は回りの木々に吸い込まれるように消えていくだけで何も起こらなかった。

あぁ、これで終わりなのだろうか…

最後に彼と会えた事が奇跡で、さよならをする時間だったのかもしれない。

そう思うともう体に力が入らなくなった。

 

いつだか、彼に言われた事がある。

 

 

 

「秋仁くんは、いつも寂しそうな顔してる」

 

「寂しい…?別に俺は寂しく無いよ」

 

「そうかな?でもずっと何も見ないで座ってたでしょう…?」

 

「どういう意味?」

 

「お友だちとか、周りに居る人を見ているけれど、見てないの。近くに行かないでずっと離れたところを歩いてる。歩いてるんだけど、歩いてないの!座ってるの!」

 

「よく、分からないな」

 

「俺はね、一人で居ると凄く寂しくなる、だからね、秋仁くんが一人で居るのを見ると声をかけたくなって…」

 

「だから?」

 

「えっと…、だから、俺とお友だちになろう!それで、俺みたいなのでも隣に居るよって言いたいんだ…」

 

「じゃあ、しゅんた君は今から俺の友達…?」

 

「うん!友達!」

 

「ははっ!ずいぶん年の違うお友達だね」

 

「と、年は関係ないもん!お友達は何歳でもなれるって本に書いてあったんだから!」

 

「わかったわかった…!じゃあ今からお友達だね。でも俺の隣に居ていいの?俺歩いてるけど、座ってるんでしょ?」

 

「いいよ!俺がおんぶして歩いてあげる」

 

「それは頼もしいね」

 

「そうだ!秋仁くんに贈り物があるの!はい」

 

「何これ?お守り…?」

 

「うん!貝で作られてるお守りなんだよ!幸せになれるお守り!」

 

「割れちゃうと大変だね」

 

「わ、割れないようにね」

 

「はいはい、わかりました」

 

俺は笑った。

彼も笑った。

 

 

そして、俺が落としたお守りを割れないようにと彼は飛び出した。

お守りは割れなかった。だけど彼は…

 

 

「しゅんた君がいなきゃ…お守りなんて意味無いでしょ?」

 

いつの間にかに俺は震えて泣いていた。

もうボロボロだった。ずっと考えないようにしていたけど、ずっと心にあったもの。

俺がお守りを落とさなければ彼は死ななかったのだ。俺が…俺のせいで。

 

俺は叫び声をあげた。雄叫びのように体の底から声を張り上げた。

 

ほんの少しの間だけの彼との再開も終わってしまった。俺は好きでもない女と無理に結婚して、幸せとも感じない家庭で暮らしていた。今の自分は間違っていたのだろうか…?子供が出来たと言われてもはねのけるべきだったのだろうか。

そうすれば、この胸の虚しさも日々の退屈もなく、彼への気持ちに素直に生きていけたのだろうか。

 

歩いているけど、座っている。

 

その通りだと思った。俺は人並みに人生を送っている。だが、心は何も感じずいつも第三者の目線のように物事を見ていた。

それは、人生という道を歩いているように見えて、実は立ち止まって歩いていないのと同じだったんだ。

友人との会話も、両親との会話もどこか距離が遠くて、好きなものも何も出来なかった。

 

「君の言う通りだよ。しゅんた君…俺は、他の人のように歩いてはいない、そして歩いて行こうとも思ってなかった。どこか俺は壊れてるのかもしれない…」

 

涙はたえず頬をつたっていたが、悲しみの表情はもう作れなかった。ただ、涙があふれでるだけだった。

 

「ただ、しゅんた君と出会ってからは、俺は変わったんだよ。自分でも気がつかないうちに、たぶん、ゆっくりだけど…歩けていたと思うんだ。隣でしゅんた君が笑ってくれてたから。それが道しるべだったんだと思う」

 

俺は体の力が抜けてへたりこむ。今度こそ歩くことをやめて、座り込んで人生を送っていくような気がした。

はたして、そんな日々に意味なんてあるのだろうか?

 

「だけど、もう俺は歩けないよ…」

 

風が強く吹きはじめて辺りの木々がざわめいた。切り絵のような真っ黒な木が俺の言葉をかき消すようにさざ波のような音を奏でる。

 

「しゅんた君が居ないと俺は歩けないんだ」

 

さざ波にさらわれるくらい、小さな、かき消えそうな声で俺は呟いていた。社に続く石畳の上に自分からあふれでた涙で染みが広がっていく。

 

ガラン…

 

錆びた社の鈴の音が聞こえた気がした。

 

「秋仁くん…」

 

しゅんたの声が、耳に届く。

俺は顔をあげて社の方を見た。

彼は涙を流しながらこちらをみている。

今度こそ幻覚だと思った。

彼が秋仁と呼んだから、自分で作り出した理想なのだと。

 

「秋仁くん」

 

また彼が俺の名を呼んだ。

 

相変わらず木々は騒がしくざわめいていて彼の声はか細い。それでも確かに名を呼んでいるのが聞こえた。

 

「ごめんね、俺、全部思い出したの。秋仁くんの事。死んじゃった事…秋仁くんに伝えてなかった事」

 

彼は立ち上がらず座ったまま必死に大きな声をだした。それは木々のざわめきに負けないようにする為だった。

 

 

「俺、秋仁君が好きなの!」 

 

 

気が付いたら彼を抱きしめていた。

名一杯力強く抱きしめた。暖かい温もりに安堵する。また会えた、彼はまだ生きている。

 

「俺も好きだよ…君におかしな程依存してる。君がいなきゃ歩けないんだよ」

 

「ほ…本当…?」

 

彼が小さく抱き返してくれた。それは弱々しくも愛しいものだった。

 

「俺…子供だし、一度死んでるし…秋仁くんの事忘れてたし…」

 

「そんなの関係ないよ。君が女であろうと男であろうと年が幼くても関係ない。俺は君の心に惹かれたんだ。」

 

彼を抱きしめる力を緩め、顔を見る。

両の目が腫れていて赤い。

その赤い色が、かえって青い瞳を際立たせていた。魅力的だと思った。

 

「君は生きているの?」

 

「今は…、生きてるよ。でも、またもとに戻ってこのお社の主を務める選択も残ってる。」

 

「しゅんた君は…どうしたい?」

 

彼はうつむいた。正直俺の心臓は強ばり脈が早くなっていた。それは恐怖に似たものだった。

彼はふと、鳥居の方に目を向けた。鳥居の少し上の方に視線を向けている。

そこには夜空しかないはずなのに、彼は何かを見ているようだった。

そして、誰かと会話をしているようにゆっくりと頷くと。

「ごめんなさい」と小さく呟いた。

 

 

「俺は秋仁君と生きていきたい」

 

はっきりとそう口にした。その言葉は俺の体に響き渡って痺れるような、大きな衝撃でそれでいて心地いい気持ちを感じた。

 

 

「秋仁くんは…?」

 

心配そうに彼は訪ねる。

答えはとうの昔に決まっている。

 

「君が隣に居ないと、道しるべになってくれないと俺は歩けないんだよ?一緒に歩いて生きてくれる?」

 

彼はうなずこうとして、一度止めた。

どうしたのだろうかと訪ねる

 

「俺、一回死んじゃってて無理に生き返ったから足が動かせないの。秋仁くんの隣では歩いていけないよ」

 

しょんぼりしている彼を見て。正直そんな事かと俺は思った。

 

「そんなの、こうすればいいんだよ」

 

「わぁっ!」

 

俺は彼を抱き上げて、片腕にあずけるように座らせる。彼は軽くて羽がはえているようだった。

 

「しゅんた君は俺の隣にいてくれればいい。歩けないならこうやっていつも一緒にいよう?」

 

俺は気付くと微笑んでいた。

彼は驚きながら瞳に涙を浮かべながら喜んだ。頬が持ち上がり、柔らかい表情を返してくれる。

 

「秋仁君…!ずっと、ずーっと一緒だよ」

 

彼は俺を抱き締めてきた。それを返すように抱き締めかえし、

 

「当たり前でしょ」と俺は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

離婚届に判を押してもらうのに、半年かかった。

嫁は最初頑として話を聞かなかったが、俺を酒で酔わせて子供を勝手に作った事を咎めたらやっとしぶしぶ話を聞くようになった。

 

あれから、しゅんた君はジムと俺の家とそして、あの社に通っている。一人では歩けないので、いつも俺が一緒だ。

俺が仕事に向かうときも、帰宅する時も、そしてお参りする時もいつも抱っこして歩いた。時々彼は申し訳なさそうにするが、俺は彼に依存している。むしろ一人で何処かに行こうとしたら寂しいので抱っこしていたいといったら彼は照れながら喜んだ。

 

煙草も止めた。

もう日々は退屈じゃない。

 

家は嫁にそのまま明け渡して俺は小さなアパートに住み始めた。子供の養育費は払うとして、相変わらず金に執着しなければならない日々は続きそうだ。だが、今の俺にはしゅんた君が居る。

しかも、どこに行くのも一緒だ。

 

日曜日になると、彼はお社に行きたいとよく言うようになった。

お社を掃除し、整備して、またたくさんの参拝者がくるようにしたいのだという。

夜まで作業をしていると夜空に浮かんだ月と共鳴するように彼の瞳は相変わらず月のように美しい。そして、人の願いを叶える事が出来なくなった今も彼は「おつきさま」なのだと俺は思う。

 

俺は一人では相変わらず歩けない。

彼も一人では歩けない。

 

だが、俺は彼がいれば彼を抱きしめ歩く事が出来る。

二人で1つの道を歩く。

 

俺はそんな面倒な生き方を今は望んでいる。

 

彼と二人。二息で歩く。

 

 

これが、これからの

俺と彼の生き方なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             終わり。